1996年9月28日土曜日

安穏とした毎日


 ルーチンワークの様に日々の生活を送るうちに、ふとそれを疎ましく思うのと同時に心地よさを感じてしまう事に気づく自分に軽い驚きを覚える。
何とかしてそれを打破しなければという焦りがあるのにも関わらず、それをせずに又いつもの安穏とした一日を過ごしてしまう。
変化は自分で起こさなければならないと判ってはいるのだが、その最初の小さな一歩を踏み出すことすら疎ましい。
明日こそは少し違うことをしてみよう。
いつもの道を曲がったら何が見えるだろう。
その道を渉った先には何があるだろう。
頭の片隅にある、少し足を延ばした場所はどうなっているだろう。
それは実につまらない、何の変哲もない光景。
しかし、その積み重ねから何かが変わると私は思う。

1996年7月31日水曜日

列車の旅


 幼い頃、列車に乗れば何処へでも行けると思っていた。
それは、その時私が住んでいた東京から母の実家のある九州へはよく寝台特急で行っていた事と、その時放映されていたアニメ、“銀河鉄道999”の影響だろう。
今でも列車で旅行をする時はそう感じる事がある。
普段の生活からゆっくりと離れて行く様を窓から眺め、ぼんやりと取り留めもなく考え事をするのに列車の旅はこれ以上ないくらい似合っている。
私は長距離の旅は飛行機よりも列車や船を使った方が好きなのだが、いかんせんそんな余裕は滅多にない。
旅は家を出ることから始まるものだったのに、いつの間にか旅は目的地にいる間だけを問うようになった感がある。
いつもと違う事をするだけで一寸した冒険と思えたのはいつの日だろうか?

1996年7月14日日曜日

佐原の大祭


 最近の祭は観光客を相手にした様な感じのものが多い。
しかし、ここ佐原の祭は彼らよりもそこに住んでいる人自身が大いに楽しんでいる様な気がする。
浅草の三社祭など大体の祭は活気にあふれるが、この佐原の祭は少し違う。
勿論活気もあるがそれよりも、たゆたう様なゆったりとした時間の中で祭が動いている様な感じがする。
それは、この祭が川を中心にしているからだろうか。
川縁で酒を飲みながら山車がうねる様を眺め、日暮れへと静かに興奮を高める。
普通聞こえる生活雑音がいつしか消え、祭ばやしが鳴り響き山車がかけ声と共に昼間とは違う様相を見せる。
その場にいた誰もが、日常の向こう側にあるものを創り出し、感じ取った。

1996年7月8日月曜日

忘却する生活


 季節の移り変わりは年を追う毎に気づかなくなってはいないだろうか。
季節が感じられるものがいつの間にか少なくなって行く。
昔から食べ物や風景の変化は四季の移り変わりを知る術だった。
物事が変化するのは当然のことだが、それを寂しくも思う。
それらの中に混じって何か大切と思うものも変わってしまう様な気がするからだ。
祭を見る度に、我ながら感傷的に思ってしまう。
祭は昔から一つの区切りとして非日常的空間としての役割があった。
しかし今、祭の前と後では何が違っているのだろうか。

1996年3月1日金曜日

移り行く日常


 世紀末な世の中だそうだ。
勿論、あと5年で21世紀なのだから、当たり前だ。
しかし、だからと言って何が変わるのか?
インターネットによって日々の生活は本当に変わったのか。
人は社会的な生き物だし、社会は人がつくるものだ。
当然技術は進歩するが、社会はそう激変しない。
それは非常に緩慢で、常に移り行く表層以外は誰も気づかない。
そして、変化に気づいた時は、それは過ぎ去った過去なのだ。