2002年7月13日土曜日

祭りの夜


 毎年の様に、佐原の祭りに来ている。
最初は写真学校のゼミでの授業だったのだが、妙に居心地がいいのか、今年も同じ場所で酒を飲む。
正直に言って実家のある町の祭りや、今住んでいる町の祭りよりもここに来ている様な気がする。
段々と来る度に写真を撮る事よりも、ただここに来る事だけが主眼となってきている。
昼頃に佐原に着き、同じ店で蕎麦をすすり、申し訳程度の写真を撮り、同じ銭湯で風呂につかり、日暮れになると同じ酒屋の前で酒を飲みつつ山車を眺める。
非常にゆっくりとした雰囲気は他では見られない気がする。
だからこそ、ここが好きなのだ。

2002年7月6日土曜日

走る事

 「自転車に乗って何か変りました?」
自転車に乗始め、同じ趣味を持つ人たちと走り初めてしばらくの頃、そう訊かれた事があった。
その時は、余り考えずに“変っていない”と答えた。
しかし、それ以来何度か再び考える事がある。
滝の様な汗を流しながら、ただただ坂を登ってゆく。
自転車を趣味とする前の休日の5時過ぎというのは寝る時間であって起きる時間じゃなかった。
稼いだ高さを一気に下り、次の登りにさしかかる前に走りながらボトルから水を飲む。
天気が良くても何も用事が無ければ外に出る事はなかった。
峠を登り、そして下る。
確かに私は変った。

1999年4月25日日曜日


 近頃、何となく空を見上げていることが多い。
別に大したことではないが、こんなに電線が多かったかとふと思う。
いつの間にか増えたのだろうか。
それとも、ただ気が付かなかったのだろうか。
今までそれは私にとってあまりにも自然な事だったのが、微妙な心境の変化があった為にその景色の捉え方も変わったのだろうか。
何と私はそれを自然なものと考えていたのだろう?
あるがままが自然なら、その景色は私が物心付いたときから既にあった“自然”なものだ。
何らかの形で人の手が触れていないものを見付けることがまず出来ない今では、それが自然となったのだろうか。

1998年3月5日木曜日

長い隙間


 久々にフィルムを現像する。
ただでさえ撮影本数の少ない私だが、最近めっきり撮らなくなった。
おかげでコンタクトプリントは日記の様だ。
コマを見返すとその時のことを思い出すと同時に、その時間の開きに苦笑する。
文章に行間を読むという言葉があるように、写真にもコンタクトプリントのコマ間を見るという言葉がある。
私のコマ間は、余りにも長い。

1997年9月19日金曜日

夏の名残り


 いつの間にか、夏が終わった。
忙しさや気怠さに紛れたまま。
何も無かった訳ではないが、その暑さだけしか印象がない。
今年は木陰で涼む事も、西瓜を食べる事も無かった。
はっきり言って特別な事ではないが、色々なやりたいことも、又来年。
夏の日は、短いからいいのだ。

1996年9月28日土曜日

安穏とした毎日


 ルーチンワークの様に日々の生活を送るうちに、ふとそれを疎ましく思うのと同時に心地よさを感じてしまう事に気づく自分に軽い驚きを覚える。
何とかしてそれを打破しなければという焦りがあるのにも関わらず、それをせずに又いつもの安穏とした一日を過ごしてしまう。
変化は自分で起こさなければならないと判ってはいるのだが、その最初の小さな一歩を踏み出すことすら疎ましい。
明日こそは少し違うことをしてみよう。
いつもの道を曲がったら何が見えるだろう。
その道を渉った先には何があるだろう。
頭の片隅にある、少し足を延ばした場所はどうなっているだろう。
それは実につまらない、何の変哲もない光景。
しかし、その積み重ねから何かが変わると私は思う。

1996年7月31日水曜日

列車の旅


 幼い頃、列車に乗れば何処へでも行けると思っていた。
それは、その時私が住んでいた東京から母の実家のある九州へはよく寝台特急で行っていた事と、その時放映されていたアニメ、“銀河鉄道999”の影響だろう。
今でも列車で旅行をする時はそう感じる事がある。
普段の生活からゆっくりと離れて行く様を窓から眺め、ぼんやりと取り留めもなく考え事をするのに列車の旅はこれ以上ないくらい似合っている。
私は長距離の旅は飛行機よりも列車や船を使った方が好きなのだが、いかんせんそんな余裕は滅多にない。
旅は家を出ることから始まるものだったのに、いつの間にか旅は目的地にいる間だけを問うようになった感がある。
いつもと違う事をするだけで一寸した冒険と思えたのはいつの日だろうか?